Economics
【日本経済新聞】岩井克人教授 「言語・法・貨幣」 -社会的な実体
岩井克人教授の「21世紀と文明」 No.1
【 やさしい経済学「21世紀と文明」08.05.30日経新聞(朝刊)】
「言語・法・貨幣と『人文科学』」
1.社会的な実体
東京大学教授 岩井克人
近年、自然科学や生命科学の発展はめざましい。その中で、人文科学は科学ではないという人が増えている。学問として消え去るべきだという人さえいる。
だが、私はそうは思わない。
ある日、考えごとをしながら歩いていると、道の上の小石につまずき、転んでしまったとしよう。擦りむいた手からは血がにじむ。
しかし、もし道にあったものが紙切れであったら、私は転ばなかっただろう。踏みつけたのも気がつかずに歩き続けたに違いない。
ところで、その紙切れの上に福沢諭吉の肖像画とともに「壱万円」という文字が印刷されていたならば、私はハッと立ち止まったはずだ。あたりを見回し、その紙切れをそっとポケットに入れようとしたかもしれない。
そのとき運悪く強い風が吹いて、その紙切れが大きな家の庭の中に飛んでいってしまったとしよう。庭の周りには、簡単に越えられる柵しかない。それでも、私は庭の中に入るのをためらうだろう。
だが、つい出来心から庭に忍び込んでしまったとしよう。さらに運悪く、その家の人が庭にいる私の姿を見とがめて、「ドロボー」と叫んだとしよう。その声に驚いて私は一目散で逃げ出すだろう。あまりに慌てふためいて転んでしまうかもしれない。
この話は、何を教えてくれるのだろうか?
私がつまずいた小石は、物理的な実体である。転んだ私の身体や擦り傷の血も物理的実体だが、ともに生命現象に関与しているという意味で生物的な実体(生命現象)である。
しかし、この世に物理的実体とも生物的実体とも異なる「社会的な実体」が存在している。それは私の歩みを止めた1万円札であり、私の侵入を防いだ法的所有権である。すなわち、貨幣であり、法であり、言語である。
人文科学とは「人間の科学」という意味である。その中核をなす経済学や法学、言語学や政治学や歴史学は、貨幣や法や言語といった社会的実体を対象にした学 問である。これから私は、人文科学が人間の科学としての存在意識をもっているのは、まさに人間が貨幣や法や言語を媒介として初めて「人間」となる社会的生 物であるからだと論じてみたい。

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