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【論説】岩井克人教授 「アメリカ、アメリカ テロリストの誤った世界認識」

岩井克人教授
「アメリカ、アメリカ テロリストの誤った世界認識」
2001年9月11日からほぼ2カ月が経ちました。あの同時多発テロが一体ど
のような要因によって引き起こされたのかを総合的に論じる力は私にはありませ
ん。だが、私が指摘できる事が一つあります。オサマ・ビンラディンは間違って
いるということです。
どのように崇高な目的のためであれ、人間の命を手段と化してしまうテロが倫理
的な誤りであるということ──それはすでに多くの人が指摘しています。ここで
あえて私が指摘したいと思っているのは、今回の同時多発テロは世界認識におけ
る誤りでもあると言うことなのです。
世界貿易センターとペンダゴン──それらはアメリカの経済と軍事の中枢です。
その中枢を攻撃したテロの背後には、世界はいまアメリカによって一元的に支配
されているという世界認識が控えているはずです。

アメリカは世界で唯一の超大国です。それは世界最強の経済力と軍事力を持って
いるからだけではありません。いま世界のどの街を訪れても、意思の疎通はすべ
て英語で可能ですし、代金の支払いもすべてドルで済みます。ホテルに戻ってテ
レビのスイッチを入れるとCNNニュースが流れ、チャンネルを替えるとハリ
ウッド映画が上映されています。ヨーロッパや日本に閉塞感が漂っている現在、
アメリカはますますその存在感を大きくしているのです。
だが私は、それにも関わらず、世界がアメリカによって支配されているという世
界認識は誤りだと考えます。いま世界の中でアメリカの存在感が突出しているの
は、アメリカが世界の「基軸」国としての位置を占めているからにすぎないので
す。
では、ここで言う基軸国とは一体どういう意味なのでしょうか?ドルは世界の基
軸貨幣です。だが、それは世界中の国々がアメリカと取引するためにドルを大量
に保有しているという意味ではありません。ドルが基軸貨幣であるとは、日本と
韓国との貿易がドルで決済され、ドイツとチリとの貸借がドルで行われるという
ことなのです。アメリカの貨幣でしかないドルが、アメリカ以外の国々の取引に
おいても貨幣として使われているということなのです。
まさに同じことが英語に関してもいえます。英語が基軸言語であるとは、日本人
と韓国人、ドイツ人とチリ人の間の対話がアメリカの言語でしかない英語を媒介
として行われているということなのです。いやアメリカはいま、貨幣や言語だけ
でなく、文化や政治や軍事にいたるまで世界の基軸国となっているのです。
世界は著しく対称性を欠いた構造をしています。一方には自国の貨幣や言語、さ
らには文化や政治や軍事がそのまま世界で流通する基軸国アメリカがあり、他方
にはアメリカの貨幣や言語や文化や政治や軍事を媒介としてお互い同士の関係を
結ぶ他のすべての非基軸国があるのです。
このような基軸国と非基軸国との間の関係は、すべての国に一票をという国連的
な平等意識を逆撫でにします。だがそれを支配と従属の関係と見なしてしまう
と、事の本質を見失ってしまうのです。

もちろん、アメリカが基軸国となるきっかけは、第二次大戦直後のアメリカが資
本主義世界の中で圧倒的な支配力を持っていたことによります。当時アメリカは
世界の工業製品の半分を生産し、その輸出額は世界全体の三割を超えていまし
た。だが、じきにアメリカはヨーロッパや日本に追いつかれ始めます。現在では
アメリカの工業生産が世界の中で占める割合は二割、輸出額は一割五分にまで低
下しているのです。
それゆえ、いま世界中の人がドルを使うのは、必ずしもアメリカ人と取引しなけ
ればならないからではありません。それは単に世界中の人がドルを使うからなの
です。そして世界中の人がドルを使うのは、やはり世界中の人がドルを使うから
にすぎません。ここに働いているのは一種の「自己循環論法」です。この自己循
環論法によって、アメリカの貨幣でしかないドルが、アメリカ経済の地盤沈下に
も関わらず、世界中で基軸貨幣として流通しているのです。
同様の自己循環論法は言語についても文化についても政治についても軍事につい
ても働いています。それによってアメリカは、その実体的な国力とは独立に、基
軸国としての役割を果たしているのです。
アメリカが世界を支配しているのではありません。アメリカの貨幣や言語や文化
や政治や軍事が圧倒的な存在感を持っているのは、それらがアメリカのものであ
りながらアメリカのものではないからです。それらがグローバルなコミュニケー
ションに関わるすべての入間のコミュニケーションの媒介として世界を流通して
いるからです。そして冷戦終結後に加速したグローバル化の中でアメリカの存在
感がますます突出してきているのは、まさにそのグローバル化によってグローバ
ルな媒介としてのアメリカの貨幣や言語や文化や政治や軍事のさらに一層の流通
が促されているからなのです。

人類の歴史は支配と従属の歴史でした。長い進化の過程の中で、どうやら私たち
の頭脳は世にあるすべての非対称的な関係を支配と従属の関係として理解するよ
うにプログラムされてしまったようです。王様が王様であるのは王様としての力
を持っているからであり、臣下が臣下であるのは王様の力によって制圧されてい
るからであるというわけです。

それは簡明直裁な世界認識です。そして、それは未だに世界で広く共有されてい
る世界認識でもあります。だが不幸なことに、それはグローバル化された現代に
おいてはもはや誤謬でしかありません。王様が王様であるのは、王様を基軸とし
て他のすべての人間がお互いに関係しあっているからにすぎないのです。そして
さらに不幸なことは、今回の同時多発テロが、この誤った世界認識から人類が解
放されるのがいかに困難であるかをもっとも悲劇的な形で示してしまったという
ことです。
9月11日から始まった世界の混乱がどのような展開をとげるかは予測不能で
す。ただ、仮にテロ側の敗北に終わったとしても、世界をすべて支配と従属の関
係とみなす旧体制の世界認識が生き続けている限り、同じような混乱がこれから
も私たちを待ち受けているはずです。
朝日新聞2001年11月5日夕刊 引用

【論説】岩井克人「会社は必ずしも株主のものではない」

岩井克人教授の法人論を垣間見る

著書「会社はだれのものか」「会社はこれからどうなるのか」では、「必ずしも株主のものではない」と主張している。
「会社は株主のものでしかないと主張している人は、街角の八百屋のような個人企業・家族企業と、会社・法人企業とをごっちゃにしている。八百屋は、 企業活動に使われているすべてのもの、店先のリンゴやナシ、配達に使う自転車、持ち家なら店、それら全部のオーナーだ。店のリンゴを自分で食べても許され る」

「しかし、例えば、村上ファンドが阪神電気鉄道の大株主でも、(話を分かりやすくするために、阪神百貨店を阪神電鉄の一事業部門と仮定すると)阪 神百貨店で売っているリンゴやナシを『会社は株主のものだ』と食べたら窃盗だ。法律上、会社の財産の所有者は会社。阪神百貨店の建物、リンゴやナシは、株 主のものではなくて、阪神電鉄のものだ。契約を結ぶ時は、株主ではなくて阪神電鉄と結ぶ。訴えられる場合、株主でなく阪神電鉄が訴えられる」
すると、株主とはどういう存在か。
「会社という法人は、ヒトとモノの両方の要素を持つ。会社はヒトとして財産を所有し、契約を結び、他人の法人を訴える。一方、モノとしての会社は株式のことで、株主が所有する。会社は2階建ての構造で、株主が会社をモノとして所有し、会社がヒトとして会社財産を所有する」

「例えば、八百屋が信用金庫から借金をして倒産すると、信金は店先の果物だけでなく、個人の持ち家や財産も差し押さえる。これに対し、会社が倒産した時に銀行が差し押さえできるのは、会社財産だけで、株主の財産には手を付けられない。だから、自由に安心して投資できる」
実際は、株主の声が大きくなっているのでは。
「それは逆だ。20世紀後半までの産業資本主義の時代には、例えば、良い造船所を持っている造船会社に投資すれば、利益を得られた。造船所や工場が利益の源泉で、それを持つためのお金を提供する株主が威張っていられた」

「ところが、常に技術革新が行われ、新製品を出さなくては差別化できないポスト産業資本主義の時代に入り、違いを生み出せる人が利益の源泉となった。株主主権論をあまり強硬に主張すると、金の卵である人が逃げる可能性があり、会社の利益にならない」
ライブドアとフジテレビジョン、村上ファンドと阪神電鉄、楽天とTBSの対立をどう見るか。
「フジテレビやTBSはメディアで、情報を提供する会社だ。阪神電鉄は(子会社の)阪神タイガースに選手やファンがいる。いずれも人が重要だ。ポスト産 業資本主義時代の会社買収は、人の組織を買うのに近いから、買収側が悪名を持って乗り込むと、買収される会社の従業員やファンが離れてしまう。買収側がき ちんとしたビジョン(将来展望)を出せば、従業員もやる気を出す」
人を大切にする経営は、どうすれば実現する。
「日本的経営は、株主の力を弱めて、人(従業員)をある程度重視する仕組みを作って来た。そのままは使えないが、人がやる気を出して創意工夫し、アイデ アを出す環境をいかに作るかが重要だ。会社が必ずしも利益追求でなく、ビジョンを持って良いことをしている、社会的使命を持っているという意識が、良い人 を集め、成功につながる」
読売新聞 2005年11月7日から抜粋

【日経新聞】岩井克人 21世紀と文明「言語・法・貨幣」アーカイブ

岩井克人教授
日本経済新聞 やさしい経済学

21世紀と文明 「言語・法・貨幣と『人文科学』」

社会的な実体
人間の本性とは
人から人への伝承
自己循環論法
開かれた社会へ
「社会である」の意味
自由と危機

【日本経済新聞】岩井克人教授 「言語・法・貨幣」 -自由と危機

岩井克人教授の「21世紀と文明」 No.7

【 やさしい経済学「21世紀と文明」08.06.10日経新聞(朝刊)】
「言語・法・貨幣と『人文科学』」

7.自由と危機
東京大学教授 岩井克人

言語と法と貨幣は、「自由」の条件である。

言語も法も貨幣も、まさに自己循環理論法の産物であることによって、物理的性質にも遺伝子情報にも血縁地縁にも還元されない意味や権利や価値となり、歴史の中で人から人へと受け渡され、社会の中に蓄積されてきた。

ひとたび人間が言語を媒介として意思を伝達しあう社会の中に生れると、その言語を内面化するようになる。それは、個々の人間の脳の中に自律した意味の宇宙 を作り上げ、物理的世界の構造にも生得本能の命令にも小集団内の秩序にも制約されずに、思考し、判断し、意思決定する自由を与える。

ひとたび人間が法の支配の下に入ると、人間同士の関係は権利と義務の関係になる。それは、個々の人間に他人の権利が及ばない権利の領域を与え、他人と共存しながら自己の目的を追求する自由を与える。

ひとたび人間が貨幣を受け入れると、交換関係は貨幣を介した売買関係になる。それは、個々の人間に価値それ自体を貨幣という持ち運び可能な形で与え、時と処と相手を問わずにどんなモノでも交換しうる自由を与える。

「自由」こそ、人間の本性である。その意味で、言語と法と貨幣はまさに「人間の本性」そのものを形作っているといえるのである。

だが、個人の「自由」の可能性は、同時に、人間社会に「危機」の可能性ももたらす。

なぜならば、言語や法や貨幣を支える自己循環理論法は、まさに物理的性質にも遺伝子情報にも血縁地縁にも根拠を持っていないことによって、しばしば自己目的化したり、自己崩壊したりするからである。

ファシズムとは指導者の言葉に大衆が熱狂することであり、ポピュラリズムとは大衆の言葉しか指導者が語らないことである。官僚主義と法それ自体が物神化さ れることであり、全体主義とは法がイデオロギーの手段でしかなくなることである。恐慌とは人がモノより貨幣を欲することであり、ハイパーインフレとは人が 貨幣から逃走することである。

人文科学が、自然科学や生命科学と同じ科学としての資格を備えているとしたら、それは言語と法と貨幣という社会的な実体を対象としているからである。それ が人間の科学という名にふさわしい科学であるとしたら、それは物理的実体としての人間でも生命物資としての人間でもなく、言語や法や貨幣によって個人にお ける自由の可能性と社会における危機の可能性を同時に与えられた、真の意味での「人間」を扱う科学であるからである。

【日本経済新聞】岩井克人教授 「言語・法・貨幣」 - 「社会的である」の意味

岩井克人教授の「21世紀と文明」 No.6

【 やさしい経済学「21世紀と文明」08.06.06日経新聞(朝刊)】
「言語・法・貨幣と『人文科学』」

6.「社会的である」の意味
東京大学教授 岩井克人

法も貨幣も、どちらが先かは不明だが、言語よりも遅く誕生したことは確かである。

ひとたび法が成立すると、小さな社会の中のむき出しの力関係は、抽象的な権利と義務の関係に置きかわる。他人が私に危害を加えないのは、私のほうが力が強 いからではなく、私の人権を侵害しない義務を負っているからである。私が他人から不当な損害を受けた時、直接仕返しをしないのは、賠償の義務を負わせる権 利をもっているからである。

ひとたび貨幣が流通すると、小さな社会の中の緊密な互恵的関係が、抽象的な価値の交換関係に置きかわる。貨幣とは一般的な交換価値の別名である。貨幣さえ 持っていれば、だれでも欲しいモノを買うことができる。貨幣を受けいれさえすれば、だれでも余ったモノを売ることができるのである。

すなわち、言語の媒介に続いて、法と貨幣の媒介は、同じ権利義務の主体として、同じ交換価値の所有者として、人間と人間が同じ「人間」として関係し合う「人間社会」をさらに拡大していくことになるのである。

もちろん、バベルの塔の神話が描くように、地球には何千もの言語、何百もの法、何十もの貨幣がある。だが、それでも、言語は翻訳を通じて、法は国際条約を通じて、貨幣は外為市場を通じて徐々につながっていく。

もちろん、先進国と途上国の人間との間には、言葉の影響力にも権利の強さにも貨幣の豊かさにも、それこそ天文学的な不平等が存在する。しかし、不平等は異 質性ではない。閉じた小さな社会の一員にとって、外部の人間は異質な存在として、無視するか排除する対象である。これに対し人々が不平等を意識するとき、 それは既に同じ「人間」であることを前提とした比較なのである。

21世紀の今、言語と法と貨幣を媒介とした社会は、まさに開かれていることによって拡大を続け、グローバル化の名の通り、地球全体を覆ってしまった。もは や現在の地球に住む人間で、この巨大社会から独立して生きていける人間はほぼ皆無になってしまった。人間の社会は、すべての人間が同じ「人間」として関係 し合う真の意味での「人間社会」となったのである。

人間とは単なる社会的生物ではない。言語と法と貨幣の媒介によって社会を成立させる社会的生物なのである。従って、言語と法と貨幣は、「人間社会」それ自体を成立させる媒介であるという、本質的な意味で「社会的」であるのである。